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陰陽デュエット 1話

 西暦二〇六七年五月。次第に暑くなってきた京都市内で、遠野凪は地下鉄から降りて自宅へと帰るため道を歩いていた。大学生活にもアルバイトにも慣れてきた頃合いだった。東京からわざわざ京都の大学に行くなんてと反発もされたものだが、なんとなく行きたかったとしか言えなかったし、一人暮らしも慣れてしまえばなんてことはない。明日は土曜日だ。午後からアルバイトがあるだけ。帰ったらレポートを片付けてと、そんなことを考えていた。
 スマートフォンから前方へと目を向けると、男が一人立っていた。和装だ、と思ったが別に珍しいことではない。問題は――その男が、右手に抜き身の刀を持っていることだった。
 声も出せずに、凪は一歩後退した。
 聞いたことがある。最近、刀を持った和装の男が夜道に現れ、女の姿を確認するなり「違う」と呟き消え去るという事件が多発していると。大学でも注意喚起がされていた。
 男は凪に向かって歩み寄ってくる。……逃げられるのか? 背を向けた途端、ばっさりと斬られるのではないか? そう思うと、逃げるという選択肢は頭から消えてしまった。噂によれば、男は近付くだけで「違う」と言って消え去るはず。凪は肩に掛けたバッグを両手で握り締めて、男が消えるのを待った。
「っ!」
 男の左手が伸び、無遠慮に凪の手首を掴んだ。
「あ、」
 男が声を漏らす。まだ若い男の声だった。
 するとずっと右手に持ったままだった刀がぼんやりと光り出した。男は口元に笑みを浮かべる。
「……当たり、みたいだね」
「えっ?」
 話が違う。男は「違う」と呟いて消えるはずなのに。
「僕と一緒に来てもらうよ」
 手首を掴む左手に力が込められた。だめだ、このままではどこかに連れ去られる――!
「は、放して、人を呼びますよ……!」
「そんな暇ないから大丈夫」
 刀の光が増す。光は次第に二人を包んだ。眩しくて、凪は目を閉じた。
 ――一瞬だけ、浮遊感があった。
 光が収まり目を開けると、凪は知らない土地に男と二人で立っていた。男はあっさりと掴んでいた手首を解放し、刀を鞘へと納めた。
「こ、ここは……?」
 街灯がひとつもなかった。月明かりだけの、暗い夜道だ。周囲を見渡すと、随分と古い建造物ばかりが建ち並んでいる。
「僕から説明するのは面倒だから、ついてきてくれる? 君を紹介しないといけないしねー」
 そう言って男は歩き出す。凪は迷った。この見知らぬ男についていってもいいのか。どういう原理が知らないが、今この場所には自分達二人しかいない。男は刀を納めているし、距離も開いた。今なら、そう、逃げられる。
 凪は男に背を向け、地面を蹴った。あっ、という声が微かに聞こえた。だが凪は止まらなかった。
 バッグを抱えて走る。男から少しでも距離を取りたくて走った。ヒールのないパンプスで良かったと思った。十字路を右に曲がってしばらく走り、凪は建物の陰に身を隠した。息を殺す。足音が近づいてきた。
「どこかに隠れちゃったのかな、面倒なことになったなあ……」
 そんな呟きが聞こえた。
「おーい、斬ったりしないから出ておいでよ。一人でいると危ないよー」
 何を言っているんだ、と凪は思う。明らかに見知らぬ男に一緒についていく方が危険に決まっている。紹介すると言っていたから、仲間がいるはずだ。足音が遠ざかり、凪は様子を見てから通りに出て、また反対に走り出した。
「ていうか、ここ一体どこなの……?」
 いくら夜とはいえ、人の姿が一人も見当たらない。街灯もないし、市外に来てしまったのだろうか。そんなことが有り得るか? 確かに自宅への帰り道にいたはずなのに。脇を流れている川に沿って、歩くことにした。
 しばらく歩いた頃、大きな橋を見つけた。対岸に渡れるようだ。そこで、向こうから複数の人影が近づいて来ることに気が付いた。
「助かった……!」
 少なくとも、先程の刀を持った男と一緒にいるよりは安全なはずだ。彼らに事情を話して、近くの駅まで連れて行ってもらおう。
「すみませーん!」
 凪は声をあげて、人影に近づいていった。影が立ち止まる。
「迷ってしまって……近くの駅を教えていただけないでしょうか?」
 大きな声をかけながら、凪は近付き、橋の中程まで来たところで異変に気が付き足を止めた。
 それは人影だった。――だが、それだけだった。
 ただの黒い影が、複数そこに立っていた。
「……人間じゃ、ない?」
 引きつった声が漏れた。
 複数の黒い影は凪に近づいて来た。そして我先にと手を伸ばす。
「いやっ!」
 バッグを振り回してその手を払うと、凪はまた駆け出した。振り向くと影は無音で追いかけて来る。走って来る。
「誰かっ……誰かいないの……!?」
 自分をどこかに連れて行こうとした男の次に出会ったのは、人間ではない人影。京都に来て二カ月、こんなに立て続けにわけのわからないことが起こる土地だなんて聞いてない!
「わっ!」
 凪は何かに足をとられて、転んでしまった。足元を見ると、黒い影のようなものが巻き付いている。まさかと思うと、一人の人影が手を長く伸ばして凪の足を掴んでいた。
 人影は迫ってくる。
「いや……死にたくない……」
 声が震えた。なんで、なんでこんなところで死ななければならないんだ? こんなよくわからないものに、殺されなければならないんだ?
 複数の手が伸びてくる。
「誰かっ、助けて――!」
 震える声がどこまで聞こえたのかはわからない。死を覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
「――呼ぶならもっと早く呼んでくれる?」
 声が聞こえた。
「え……?」
 目を開ける。
 ――人の、背があった。刀を持った、人間の背中だ。
 凪が見たのはそれだけで、先程まで追って来ていた黒い影はどこにもなかった。
 その人間が、凪をここに連れて来た男だと気付くのに数秒かかった。刀を鞘に納めると、男は凪の方を振り向いた。
「あの――」
「あのさあ、」
 口を開いたが、男の苛立った声を聞いて言葉は途切れた。男は溜め息をつく。
「ここがどういうところかもわからないで逃げ出すとか馬鹿なの? こんな夜道で女の子一人で歩いて、無事でいられるような安全な場所だとでも思った?」
「なっ――」
 凪は思わず勢いよく立ち上がった。
「元はといえば、そっちが私をこんなところに連れて来たのが悪いんでしょう!? なんですかさっきの影! ファンタジーですか!? ゲームの中の世界だとか言いませんよね!?」
 まくし立てるように言うと、男は眉を寄せた。
「言ってる意味がわからないけど、とにかく君は大人しく僕と来るのが安全なの、わかった? 君に死なれると困るんだよね」
 あくまでも上から目線なのを崩さずに言う男に、凪は苛立ちながら、指を突きつけた。
「そんなこと言っても、見ず知らずの人について行けって言うんですか!? 信じられない! そんなに警戒心のない女に見えるんですか!?」
「ふーん。警戒心のある君は、見ず知らずの土地を不用心に歩き回るんだ?」
 言葉に詰まる。男の言うことももっともだった。見ず知らずの土地で生死をかけた鬼ごっこをしたのは確かだ。そして、この男が助けてくれたのも確か。……信用してもいいのか?
「面倒だけど、どうしても自分の足でついて来たくないっていうなら、気を失わせて運んでもいいんだよ? ちょっと痛い目を見ることになるけど、まあ急に逃げ出すような子だし、その方が楽かもしれないね?」
 男が刀の柄に手を添わせる。その刀で殴るのだろうということは予想がついた。……少なくとも良い人には全然見えない。
「……わかりました。ついていきます」
 気を失わされて、本当に見知らぬ場所に連れて行かれては困る。せめて逃げられる余地は残しておかねばならない。凪は自分の足で男についていくことにした。
「最初からそうしていれば、怖い目にも遭わなかったのにね」
 そう言うと、男は歩き出す。いちいち癪に障ることを言うと苛立ちながら、凪は男の後に続いた。
「それで、ここはどこで、あなたは誰なんですか」
 先を歩く男の背に問いかける。
「後で説明するって言わなかった?」
「今言えない理由でもあるんですか?」
 面倒そうな男に、負けじと言い返す。ただ面倒くさがっているだけだと確信していた。男がまた息を吐いた。
「ここは元冶元年の京。僕は沖田総司。これでいい?」
 凪は思わず足を止める。数歩歩いて男も足を止めた。
「どうしたの。行かないの?」
 凪はその言葉を聞いてはいなかった。
「元冶……元年……?」
 西暦何年だったかはすぐに出てこない。だが、それが幕末の元号であることはわかった。
 そして、凪は男をまっすぐに見て、震える指を突きつける。
「お……沖田、総司……?」
 男――沖田はその反応が気に入ったようで、にんまりと口元に笑みを浮かべた。
「どうぞよろしく」
 ……わけがわからなさすぎて、頭がショートしそうだった。

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